

かつてレッスンのたびに開かれ、目で、指でたどられたピアノの楽譜の頁をすべて解き広げ、つなぎ、その上から、射抜かれた鎧や水没した壷の群を大きく描き重ねる。
そんな太田の作品に触れながら、私はいくつかの「抹消」について考える。用途を抹消された、あるいは遺棄された物のイメージによる、譜面のシークエンスの抹消。マーカーや鉛筆をひたすら塗り込んで行くその身振りには、どうやら、ドローイングの本性に接するものがありそうだ。型通りのデッサンが専ら知の制御を被るのとは異なり、ドローイングはイメージの産出ないし転写である以前に/以上に、支持体の抹消というモーメントをはらむ。それは作者の痕跡として主体を召喚するさらに以前の、未分の身体性の顕現といってもよいだろう。私たちは描き方、書き方は学んでも、消し方、抹消のディシプリンからは大きく自由でありつづける。あるべきドローキングとは、したがって、徹頭徹尾、抹消の身振りに近づくのではないか。太田の作品を見て以来、私はなおさらにそう感じている。
アートクリティック 金井 直
『Art Court Frontier 2007 #5』図録より